Written by: Trishit Banerjee
Translated by: Ayşe Haruka Oshima Açıkbaş
福田和香子さんは今、机と本と成績などが特徴である学生生活に戻っている。Students Emergency Action for Liberal Democracy自由と民主主義のための学生緊急行動 (SEALDs)解散後、大学中退から5年の長い年月を経て彼女は復学を決断したのだ。安倍内閣が2015年に制定した、日本の自衛隊が外国の紛争に参加することを許可する安保関連法案に対して抗議してきたSEALDs設立者の一人だった。
「私は別に活動家になろうとはしていませんでした。」と彼女は語る。続けて「高校生としての普通の生活を優先していましたが、特定秘密保護法が施行されたときに私たちの言論の自由脅かされていると学びました。何か行動を起こしたいと思って街頭に繰り出しました」と説明した。
特定秘密保護法は2013年に公布され、監視メカニズムが整ってない状況下で情報を秘密と指定する莫大な自己決定力を官僚に与えた。また、そのような情報を開示することが公益である場合にも関わらず、内部告発者やジャーナリストに対して敵対的であるのが特徴だ。これが「特定秘密保護法に反対する学生有志の会 Students Against Secret Protection Law」(SASPL)が設立された理由である。国民の80%が反対意見を示す中でも特定秘密保護法が施行された後、2015年5月3日にSASPLを後続する団体SEALDsが発足され、後に2016年8月末に解散した。
「SEALDの解散決断は当然だった」
2016年頃にはSEALDにもう戦い続ける気力が残っていなかった、精神的に疲れていたのだ。「解散は最初から計画の一部だった」と福田さんは言う。参議院選挙の後、最後の記者会見が行われた。SEALDsの活動を成功と見なす者もいれば一部にとっては失敗だった。福田さんは両方の意見に同意している。「安全保障関連法は最終的に可決され、解散後、誰も運動を続けませんでした。「Public for Future」などの支部がいくつかありましたが、どれも長続きしませんでした。他の形での活動を続けたメンバーはいましたが、完全に手を引いたメンバーもいれば国を去っていったメンバーもいました。」と福田さんは告げる。
加えて、多くの賛同者がSEALDsの運動を青春時代から欠けていたもの、または夏の思い出を作る方法としてみていたことについて「そうなると運動が短い間しか続かない。ですから私たちが解散しなかったとしても、終わりを迎えていたでしょう」と彼女は言う。
驚くことに、SEALDsのメンバーはこれまで誰も議員として立候補していない。「もし団体が続いていたら、政治的活動を選ぶメンバーも出ていたでしょう。」と福田さんは言う。しかし福田さんは、SEALDが政治的団体にならなかったことには日本特有の理念が関係していると思っている。降ろされる前に自分で去るべし、という理念は無意識ながらも強い影響をもたらしているのではないだろうか。
SEALDs後の生活
その後、福田さんはドイツへ行き、フェミニズムと人権活動に触れ、帰国後の今は大学で社会学を専攻している。「バーチャルイベントや講演に招待されます。でも、私は書くことにもっと興味があります。SEALDsにいた頃からやりたかったことです。」と彼女は言う。「ドイツから戻ってきた後、何人かのSEALDsメンバーだった女性と一緒にいくつかのフェミニスト・デモを開催しました。私の焦点はフェミニズムですが、人権全体に関心を持っています。」とも付け加えた。
日本で公然的にフェミニストであることは簡単ではない。福田さんは、フェミニズムについて話すことはおそらく安保法案について話すよりも難しいだろうと言う。フェミニストだと自称すると「でも、男性と付き合ってるよね?」または「あなたブスじゃないから、そんなことしなくてもいいのに。」などと言われるそうだ。フェミニズムは多くの人から「選んでもらえない女性による男性を憎み、騒ぎ立てる運動」と見なされているのだ。
ドイツ滞在と日本への帰国
福田さんはドイツで2年間滞在している間、身体的解放を経験したと言う。「日本でしていたように、毎食後に体重を量ることが無くなりました。ドイツで過ごした最初の冬、当時のファッションのトレンドを知りませんでした。それまで日本では他人に受け入れられるため、『市場』に出ているために普通にすることだった。消費と着飾ることを楽しむことが当たり前だと、洗脳されていました。」と彼女は説明する。ドイツで資本主義の悪さを認識したと同時に孤独をもっと快適に思うことを学んだ。彼女にとって、それは日本ではありえないことだった。
帰国後、過去のSEALDs活動が雇用機会にもたらす影響を理解した。「私は自分の過去を恥じていませんが、ほとんどの企業が事前に希望者について検索するのは事実です。その理由で仕事をやめさせられたことがあります。」と彼女は言う。最近はフルネームで名乗ることをためらうようになった。現在、音楽会場で働いているが、上司に自分の本名を明らかにしないように頼んだ。コロナ禍で多くの仕事が失われる中、彼女は以前、様々な組合から受け取った情報を共有するようになった。「どうやってこんな情報を手に入れたのかと尋ねられ、そこで活動家としての『カミングアウト』をしました。」と彼女は言う。「彼らは私を友達としてしか知っておらず、活動家としての私を知らなかったのです。」
アクティビズムへの道のり
しかし幼少期の福田さんは教室で手を挙げることのない恥ずかしがり屋だったそうだ。政治について普通に話すことにあたって、ジャーナリストの父親が彼女に多大な影響を与えた。幅広い読書によって直接的な交流することなく、人々の現実に共感することが出来た。「常に言いたいことがあったのに、私は決して口に出しませんでした。思っていることを言ったらいじめられると思っていましたし、現に周りでそれが起こっているのを見ていました。」
福田さんの場合は、知識よりも行動が先に来た。「寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』は1960年代の学生運動の聖書でした。その題名の由来は、当時の学生がマルクスなどの文学を幅広く読んでおいていながら行動を起こさない傾向にあったことです。私はそのタイトルに動かされ、街頭へ繰り出しました。SEALDsでさまざまな分野の人々と出会い、彼らから学ぶことができました。」と彼女は説明する。
福田さんはSEALDsに参加することで、意思表明のプラットフォームを手に入れた。SNSも使用したが、彼女はオンライン活動が苦手だと言う。「デモの初日、私は誰かがカメラを持っいるのを見て、先に進み出てその前で名乗り、意思表明をしました。周りに何故そんなことしたのかと問われると危なかったのかなと思いました。私はそれを数年後になって、理解しました。」と彼女は、この出来事がその後の生活へもたらした影響をほのめかして言った。
革命のスタイリング、如何に?
1960年代の学生革命は、拷問で結末を迎えた。SEALDsが非暴力的であることは間違いなく意識的な選択だった。「1960年代の精神を受け継いだ極左の残党と関与しないように注意しました。積極的な除外行動は行いませんでしたが、関与もしませんでした。警察は私たちを特に気にしていませんでした。彼らは私たちを単なるトラブルメーカーとしてみていました。なのでSASPLとSEALDsのメンバーは誰も逮捕されたことはありません。私たちは逮捕されることが個人的な損失だけではなく、運動全体が苦しむ結果になるだろうと理解していました。」と福田さんは言う。
この慎重な距離を保つためにSEALDsはヘルメットを着用したり旗を掲げたりしなかった。1960年代の運動の象徴として見られるからだ。ユニオンフラッグなどはSEALDsがより知られてから最後のほうに使われるようになった。何よりメンバーが普通の学生として捉えられるように気をつけていた。そのため、パンフレットも慎重に作成された。時には障害者差別や性差別に近いのではと思われる程の外見調整の慎重さであった。常に弁護士とボランティアのボディーガードで形成されたチームがついていて、警察の指示通りの街頭抗議を行った。「そこで行われていたのは安保法案への抗議だけではなく、日本において抗議の文化を再構築することでした。」と福田さんは言う。
福田さんは対峙することと現状維持のバランスに悩まされていた中、自分が持っている特権には気づいていた。誰もが毎週金曜日に東京で抗議する余裕を持っているわけでは無いのだ。「自分の特権にかかわらずどれほど謙虚であるかは関係ありません。どうしても無知で傲慢に聞こえるでしょう。」と彼女は言う。「だから専業主婦であるとか、ダンサー、または科学者であることは関係ないのです。」と付け加える。彼女はデモに「政治的意見を持ってると思わせないであろう」特定の服装で参加した。「学校の勉強が得意でなくても、何か言いたいことがあればそれを言う権利が誰にでもあるのです。」と彼女は言う。
アクティビズムと新世代
2011年の福島第一原発事故後の反核運動により、日本におけるアクティビズムの新時代が始まった。福田さんはすべての問題の主な原因は多くの人が自身の持つ権利を理解できていないことだと思っている。「もし理解していたら、過労死は存在しないでしょう。」と彼女は言う。人々は政府や権限を持つ者を問いただそうとせず、コロナ禍で政府が皆にマスクをするように出来るのもそれが要因の一つだと付け加える。おそらく病気への恐れではなく、社会から非難されたり追放されたりすることへの恐れなのだ。福田さんは今のところ政治的な野心を持っていないが、若い世代が指揮を取ることを望んでいる。「今の多くの若い団体の代表者が女性であるのが現状で、それは非常に2020年らしいことだと感じています。」と述べている。彼女は若い世代の活動が洗練されていっていると思うついでに、企業雇用を思い出させる履歴書中心的なところに違和感を感じている。言葉選びの慎重さの中、怒りと抗議が見えにくい事を不思議に思っているそうだ。しかし同じ道を歩んできた者として強い共感を示している。
「Choose Life Project」などといった新しいメディアの作成と、より多くの女性を意思決定の場に送り込む事が今の福田さんの行動方針だ。「千人の前に立って話すのはそう難しいことではありません。隣人や友人と話すことの方が難しいのです。」と彼女は言う。
SEALDsのウェブサイトを開くとそこには、「この緊急行動は終わりました。しかし、この未完成プロジェクトを続けなければならない。」と書かれている。スクロールすると「これが民主主義だ。」との一文が見られる。自分の部屋で本に囲まれている福田さんは微笑む。それは恐れを知らない、忖度などしないと感じさせる笑顔だ。彼女は「権力者が何かを提供する意思を示したら、もし完全に理解出来ていなかったとしてもまずは反対しろ」とまで言い放った。意見の違いにもかかわらず、SEALDsが日本の民主主義における重要な試みであったこと、そして新しい試みによってのみ改善される物があるを知らされたことを私たちは否定できないだろう。